2月28日 御命日の集い 午後一時半~」への1件のフィードバック

  1. 田原 秀樹

    今回の本願寺横浜別院輪番の坂田智亮住職の法話は、「承元の法難」(1207年)により、法然上人は讃岐に、親鸞聖人は越後に流罪となり、法然上人の弟子・安楽と住連他2名が死罪となった事件と親鸞聖人の仏教観の深化がテーマでした。事件の背景に法然上人が説く専修念仏の教えが急速に民衆に広まっていくのを快く思わなかった比叡山や奈良の旧仏教勢力があり、後鳥羽上皇が熊野参詣の留守中に、上皇が寵愛する女官たちが安楽や住連が開いた念仏会に参加していたことを知った上皇が激怒し、これを機に念仏を禁止したのでした。
    坂田住職は後鳥羽上皇のこの激怒は正しく「私憤」で、私たち人間は妬み、怒り、嫉みなど消し去ることができない妄念と仰るのです。「往生要集」の著者・源信は、
    「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。」(「横川法語」)
    と妄念こそが私そのものであり、この妄念の他に何もないと言い切っています。日常生活にて一喜一憂する妄念だらけの私たちこそが弥陀の摂取不捨の悲願に救われるというのです。
    親鸞聖人も「教行信証」の「化身土巻 後序」で、
    「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を捨てて本願に帰す。」
    と20年に及ぶ比叡山での自力修行でも煩悩を断ち切れず、絶望の末に法然上人の説く専修念仏の教えに出会い、諸行、雑行を捨てて、念仏一行の本願に帰されたと述懐されています。
    また流罪の際、親鸞聖人は還俗のうえ、「藤井善信」という俗名を与えられましたが、後にその罪名を返上して「親鸞」と名乗るようになります。
    「しかればすでに僧にあらず俗にあらず。この故に禿の字を以て姓とす。」
    と、自分を「愚禿親鸞」、「愚禿釈親鸞」と呼ぶようになりました。「禿」とは僧籍に身を置かない求道者という意味で、「非僧非俗」の立場で生きる決意を示され、また「釈」を親鸞に冠することで愚かな人間のほうが真の仏弟子になることができると考えたといわれます。
    「承元の法難」で恩師・法然上人と別れる際、親鸞聖人は、
      会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり
    と詠むと法然上人は、
      別れ路の さのみ嘆くな 法の友 また遇う国の ありと思えば
    と別れを嘆かなくてもよい、弥陀の本願に救われた者は浄土で必ず再会できると返しています。事実、今生の別れとなり、お二人は再会することはありませんでした。
    そして僻遠な越後で、親鸞聖人は殺生を生業とする多くの猟師、漁師、農民たちを目の当たりにして、本願を信じ念仏を申すしかないと確信されました。本願寺第三代覚如は、
    「そもそも、また大師聖人(源空=法然)もし流刑に処せられたまはずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。これなほ師教の恩致なり。」
                                             (「御伝鈔」)
    と、法然上人の流刑が無かったら、親鸞の越後の流刑も無く、それが無かったら、この地の人々に阿弥陀仏の本願をお伝えすることもできなかった。これすなわち法然上人の御恩の賜物と親鸞聖人はむしろ喜んでおられると書いています。
    今回の法話は奥が深く、親鸞聖人の教えにまた一歩近づけました。こうした機会を設けてくださり、ありがとうございました。深く感謝申し上げます。

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