田原 秀樹 2020年4月16日 11:39 AM ◆東国へ向かう途中の佐貫(さぬき)で揺らいだ信仰 建保2年(1214年)、親鸞聖人は家族と共に越後の国を立ち、信州善光寺を経由して、上野の国を経て下野の国に入り、さらに下総の国から常陸の国(茨城県)へと向かわれました。上野の国の佐貫に通りかかったところ、飢饉に苦しむ人たちや行き倒れ、死体の山、物乞いをして親鸞聖人にすがりつこうとする人々を目の当たりにされました。しかし施すものは何も持ち合わせていません。村人たちから、 「亡者の霊を慰めるために、『浄土三部経』の千部読誦の法要を営んでもらいたい」 という願いの申し出があり、親鸞聖人は「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を千部読もうとされました。ところが、妻・恵信尼の後の書簡によると、 「佐貫と申すところにてよみはじめて四五日ばかりありて、思ひかへしてよませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり」 (「恵信尼消息」) と、三部経を読み始めて四、五日ほど経ったところで思い返して、お経をお読みにならず、常陸へ行かれてしまった、とあります。経典を読みその見返りに何かを得ようとすることは、自力の行を行って功徳を得ようとすること。真に他力を信じるのであれば、人々に本当の信心と念仏を説くべきだったと、自分の信仰の揺らぎを恥じらわれたのでした。 ◆常陸の国最初の住まい~小島草庵(おじまのそうあん)~ 親鸞聖人一行は常陸の国下妻の小島郷に入りました。当地の地頭郡司武弘(ぐんじたけひろ)が親鸞聖人の高名を伝え聞き、常陸にお迎えして、教義を広めていただきたいとの申し出があったからでした。親鸞聖人はこの地に3年間お住まいになり、その跡は「小島草庵跡」として今も残っています。草庵跡に聳える銀杏は、親鸞聖人お手植え銀杏とも言われ、後年稲田へ向かった親鸞聖人を慕う気持ちを込めて「稲田恋しの銀杏」と呼ばれています。樹の下には四基の五輪塔が立ち、敏達天皇、用明天皇、聖徳太子、親鸞聖人の碑といわれ、「四体仏」と呼ばれています。ここからは筑波山が見え、九歳で出家して20年間修行に明け暮れた比叡山と山容が似ていることから、親しみを感じられていたことは想像に難くありません。ちなみに筑波山は深田久弥の名著「日本百名山」の一つに選ばれています。雪の富士、紫の筑波と関東の二名山で、その歴史は古く、奈良時代の「常陸風土記」の神話に登場すること、万葉集などの詩歌に数多く詠まれていることを理由に挙げています。 小島草庵での親鸞聖人の布教の様子は、どのようなものだったのでしょうか。 親鸞聖人は決まった寺院も持たず、ある時は道の端で、ある時は民家の炉端などで念仏を称えることを勧め、老若男女に分け隔てなく、ご縁に従って熱心に布教されました。 「私は念仏して弥陀に救われよという、法然上人のお言葉を信じてきた。そのほかには何のわけもない。念仏をとなえ、まことに浄土に生まれることになるのか、地獄に落ちねばならぬのか、さような儀は一切存ぜぬ。たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に落ちようとも、いささかも後悔はいたさぬ」 (津本 陽「弥陀の橋は 親鸞聖人伝」上巻) と、親鸞聖人の飾り気の無い信仰の告白を聞いた人々は、感動の渦に包まれるのでした。 親鸞聖人と家族は小島の草庵が新築されるまで、下妻に近い坂井というところに数か月お住まいになりました。「恵信尼消息」によると、ある時、恵信尼は夢を見ました。夢の中では堂が東向きに建ち、堂の前に松明(たいまつ)があり、その西側には鳥居のような横木があって仏がかけてあった。一体は仏のお顔ではなくただ光の中に仏の頭光ばかりあって、もう一体は仏のお顔をしている。「これはなに仏にてわたらせたまふぞ」と尋ねると、誰ともなく声が聞こえ、「あれこそ法然上人にてわたらせたまへ。勢至菩薩にてわたらせたまふぞかし」と言う。「いま一体は」と問えば、「あれは観音にてわたらせたまふぞかし。あれこそ善信の御坊(親鸞)よ」と答えた、と言うのです。恵信尼は親鸞聖人に、法然上人が勢至菩薩の化身であることだけは話しましたが、それ以外は胸の奥にしまい込み、改めて何があっても親鸞聖人に添い遂げようと決意しました。 ◆雪の夜の石枕~枕石寺(ちんせきじ)~ 親鸞聖人が小島草庵に来て二年目の冬、性信(鹿島神宮の神官の一族出身。越後出立のお供をした)、西念(信濃の国の武士出身。越後配流中の親鸞を訪ねた)を連れて、常陸の国久慈郡大門村枕石の辺りに布教に通りかかると、夕方から雪が降ってきました。訳あって、この地に流されていた武士・日野左衛門尉頼秋(よりあき)の屋敷に一夜の宿を求めました。日ごろから自暴自棄になっていて、借金の取り立てにも失敗し、酒を呷っていたこともあり、その申し出を頼秋は素気無く断り、杖で親鸞聖人を打とうとしました。親鸞聖人たちは仕方なく屋敷の前の石を枕にして眠ることにしました。このとき親鸞聖人は、 わびしさに 石を枕に 假寝して 明くるを待つは ひさしかりける 寒くとも たもとに入れよ 西の風 みだの国より 吹くと思へば と詠まれました。 その夜、頼秋の夢に観音菩薩が現われ、「門前に阿弥陀仏がいるから教えを受けよ」と告げました。驚いた頼秋が門前に出ると、石を枕にして念仏を称える親鸞聖人の姿がありました。後悔した頼秋は親鸞聖人たちを屋敷に招き入れ罪を詫びました。親鸞聖人は頼秋に阿弥陀仏の教えを説き、頼秋は歓喜してその教えを受け入れて弟子となり、入西房道円という法名を与えられました。自らの屋敷を寺院とし、親鸞聖人が石を枕にされたことにちなみ「枕石寺」と名付けたといわれています。この御枕石は毎年11月26日に公開されています。 この伝承は、大正6年(1917年)に倉田百三が刊行した戯曲「出家とその弟子」の題材として用いられ、本願寺の門信徒のみならず、当時の多くの若者の知るところとなりました。唯円の「歎異抄」を丹念に読み込んで創作した戯曲だけあって、親鸞のセリフの 「是迄の出家は善行で極樂參りが出來ると教へました。私はもはやそれを信じません。それなら私は地獄です。併し佛樣は私たちを惡い儘で助けて下さいます。罪を赦して下さいます。それが佛樣の愛です。私はそれを信じて居ます。それを信じなくては生きられません」 (「出家とその弟子」第一幕) などと本願他力の境地が随所に描写されています。 建保5年(1217年)晩春、親鸞聖人は家族と共に3年間住み慣れた常陸の国下妻の小島草庵を離れ、笠間郡稲田郷に移られました。小島の郡司武弘が前年に亡くなり、代わって笠間の領主塩谷朝業(ともなり)が稲田に草庵を設け、親鸞聖人を迎えたからでした。 返信 ↓
◆東国へ向かう途中の佐貫(さぬき)で揺らいだ信仰
建保2年(1214年)、親鸞聖人は家族と共に越後の国を立ち、信州善光寺を経由して、上野の国を経て下野の国に入り、さらに下総の国から常陸の国(茨城県)へと向かわれました。上野の国の佐貫に通りかかったところ、飢饉に苦しむ人たちや行き倒れ、死体の山、物乞いをして親鸞聖人にすがりつこうとする人々を目の当たりにされました。しかし施すものは何も持ち合わせていません。村人たちから、
「亡者の霊を慰めるために、『浄土三部経』の千部読誦の法要を営んでもらいたい」
という願いの申し出があり、親鸞聖人は「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を千部読もうとされました。ところが、妻・恵信尼の後の書簡によると、
「佐貫と申すところにてよみはじめて四五日ばかりありて、思ひかへしてよませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり」 (「恵信尼消息」)
と、三部経を読み始めて四、五日ほど経ったところで思い返して、お経をお読みにならず、常陸へ行かれてしまった、とあります。経典を読みその見返りに何かを得ようとすることは、自力の行を行って功徳を得ようとすること。真に他力を信じるのであれば、人々に本当の信心と念仏を説くべきだったと、自分の信仰の揺らぎを恥じらわれたのでした。
◆常陸の国最初の住まい~小島草庵(おじまのそうあん)~
親鸞聖人一行は常陸の国下妻の小島郷に入りました。当地の地頭郡司武弘(ぐんじたけひろ)が親鸞聖人の高名を伝え聞き、常陸にお迎えして、教義を広めていただきたいとの申し出があったからでした。親鸞聖人はこの地に3年間お住まいになり、その跡は「小島草庵跡」として今も残っています。草庵跡に聳える銀杏は、親鸞聖人お手植え銀杏とも言われ、後年稲田へ向かった親鸞聖人を慕う気持ちを込めて「稲田恋しの銀杏」と呼ばれています。樹の下には四基の五輪塔が立ち、敏達天皇、用明天皇、聖徳太子、親鸞聖人の碑といわれ、「四体仏」と呼ばれています。ここからは筑波山が見え、九歳で出家して20年間修行に明け暮れた比叡山と山容が似ていることから、親しみを感じられていたことは想像に難くありません。ちなみに筑波山は深田久弥の名著「日本百名山」の一つに選ばれています。雪の富士、紫の筑波と関東の二名山で、その歴史は古く、奈良時代の「常陸風土記」の神話に登場すること、万葉集などの詩歌に数多く詠まれていることを理由に挙げています。
小島草庵での親鸞聖人の布教の様子は、どのようなものだったのでしょうか。
親鸞聖人は決まった寺院も持たず、ある時は道の端で、ある時は民家の炉端などで念仏を称えることを勧め、老若男女に分け隔てなく、ご縁に従って熱心に布教されました。
「私は念仏して弥陀に救われよという、法然上人のお言葉を信じてきた。そのほかには何のわけもない。念仏をとなえ、まことに浄土に生まれることになるのか、地獄に落ちねばならぬのか、さような儀は一切存ぜぬ。たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に落ちようとも、いささかも後悔はいたさぬ」
(津本 陽「弥陀の橋は 親鸞聖人伝」上巻)
と、親鸞聖人の飾り気の無い信仰の告白を聞いた人々は、感動の渦に包まれるのでした。
親鸞聖人と家族は小島の草庵が新築されるまで、下妻に近い坂井というところに数か月お住まいになりました。「恵信尼消息」によると、ある時、恵信尼は夢を見ました。夢の中では堂が東向きに建ち、堂の前に松明(たいまつ)があり、その西側には鳥居のような横木があって仏がかけてあった。一体は仏のお顔ではなくただ光の中に仏の頭光ばかりあって、もう一体は仏のお顔をしている。「これはなに仏にてわたらせたまふぞ」と尋ねると、誰ともなく声が聞こえ、「あれこそ法然上人にてわたらせたまへ。勢至菩薩にてわたらせたまふぞかし」と言う。「いま一体は」と問えば、「あれは観音にてわたらせたまふぞかし。あれこそ善信の御坊(親鸞)よ」と答えた、と言うのです。恵信尼は親鸞聖人に、法然上人が勢至菩薩の化身であることだけは話しましたが、それ以外は胸の奥にしまい込み、改めて何があっても親鸞聖人に添い遂げようと決意しました。
◆雪の夜の石枕~枕石寺(ちんせきじ)~
親鸞聖人が小島草庵に来て二年目の冬、性信(鹿島神宮の神官の一族出身。越後出立のお供をした)、西念(信濃の国の武士出身。越後配流中の親鸞を訪ねた)を連れて、常陸の国久慈郡大門村枕石の辺りに布教に通りかかると、夕方から雪が降ってきました。訳あって、この地に流されていた武士・日野左衛門尉頼秋(よりあき)の屋敷に一夜の宿を求めました。日ごろから自暴自棄になっていて、借金の取り立てにも失敗し、酒を呷っていたこともあり、その申し出を頼秋は素気無く断り、杖で親鸞聖人を打とうとしました。親鸞聖人たちは仕方なく屋敷の前の石を枕にして眠ることにしました。このとき親鸞聖人は、
わびしさに 石を枕に 假寝して 明くるを待つは ひさしかりける
寒くとも たもとに入れよ 西の風 みだの国より 吹くと思へば
と詠まれました。
その夜、頼秋の夢に観音菩薩が現われ、「門前に阿弥陀仏がいるから教えを受けよ」と告げました。驚いた頼秋が門前に出ると、石を枕にして念仏を称える親鸞聖人の姿がありました。後悔した頼秋は親鸞聖人たちを屋敷に招き入れ罪を詫びました。親鸞聖人は頼秋に阿弥陀仏の教えを説き、頼秋は歓喜してその教えを受け入れて弟子となり、入西房道円という法名を与えられました。自らの屋敷を寺院とし、親鸞聖人が石を枕にされたことにちなみ「枕石寺」と名付けたといわれています。この御枕石は毎年11月26日に公開されています。
この伝承は、大正6年(1917年)に倉田百三が刊行した戯曲「出家とその弟子」の題材として用いられ、本願寺の門信徒のみならず、当時の多くの若者の知るところとなりました。唯円の「歎異抄」を丹念に読み込んで創作した戯曲だけあって、親鸞のセリフの
「是迄の出家は善行で極樂參りが出來ると教へました。私はもはやそれを信じません。それなら私は地獄です。併し佛樣は私たちを惡い儘で助けて下さいます。罪を赦して下さいます。それが佛樣の愛です。私はそれを信じて居ます。それを信じなくては生きられません」 (「出家とその弟子」第一幕)
などと本願他力の境地が随所に描写されています。
建保5年(1217年)晩春、親鸞聖人は家族と共に3年間住み慣れた常陸の国下妻の小島草庵を離れ、笠間郡稲田郷に移られました。小島の郡司武弘が前年に亡くなり、代わって笠間の領主塩谷朝業(ともなり)が稲田に草庵を設け、親鸞聖人を迎えたからでした。