2月9日 定例法話 午後一時半~ 1件のフィードバック 九日は、崇敬区域寺院の方に、ご法話いただいております。 二月は、横浜市栄区長慶寺住職中村良照師です。 法話終了後、引き続いて、座談会(茶話会)にもご参加ください。
田原 秀樹 2020年2月24日 12:37 PM 今回の横浜市栄区長慶寺住職中村良照師の法話は、「阿弥陀」とはサンスクリット語のアミタ―ユス(永遠の時間(いのち)=無量寿仏)、アミターバ(限りなき光明(ひかり)=無量光仏)を意味し、数ある仏の中でも私たちを救おうと本願の誓いを立てられ、厳しい修行を経て悟りを開いた特別の仏・本仏であり、その救いの働きかけが私たちに向けられているといった趣旨のお話だったと思います。そして阿弥陀仏は色も形を持たない真理、摂理であり、命のある、慈悲に満ちた真理であるとも話されました。 「自然(じねん)」についても触れられ、親鸞聖人が、 「自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに、法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑにしからしむるを、法爾といふなり。」 「末燈抄」 五 自然法爾の事) と、自分たちが気づかないうちに、阿弥陀仏の働きかけが私たちに届いていて、信心をいただき、念仏をいただき、仏の誓いに身を委ねきったとき、自然法爾の世界に安住できるというのです。 つまり「南無阿弥陀仏」とは仏の願いに目覚めさせようとする仏からの働きかけであり、念仏を唱えれば、仏への信心も自然と起きるということで、私たちは「南無阿弥陀仏の精神」で素直に謙虚に生きていくことが肝要であると結ばれました。 江戸時代の禅宗の僧侶で、優れた歌人、書家の良寛の晩年の弟子の貞心尼との師弟愛についても話されました。禅宗の尼であった30歳の貞心尼は、70歳の良寛に魅かれ、和歌を贈答し、良寛の最期を看取りました。病状が悪化して、死が近いことを知った貞心尼は、 生き死にの 境離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき と詠むと良寛は、 うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ (「はちすの露」) と、喜びと悲しみ、長所と短所など、人生のさまざまな裏表をさらけ出して死に行く我が身を万感込めて返しています。高齢化社会が急速に進んでいく昨今ですが、私たちがどのように生き、どのように死んでいけばよいのか、宗教の役割はどうあるべきかを問いかけているように思います。 また良寛は禅宗の僧侶なのに、次のような辞世の句も詠んでいます。 良寛に 辞世あるかと 人問はば 南無阿弥陀仏と 言ふと答へよ 仏の境地には自力も他力も無く、真理としての仏は阿弥陀仏ただ一つの意が込められていると思います。念仏を唱える良寛に親しみを感じます。 今回の法話はお話の領域が広く、理解するのに大変でしたが、親鸞聖人の教えにまた一歩近づけたという思いです。このような法話の機会を設けてくださいまして、ありがとうございました。深く感謝申し上げます。 返信 ↓
今回の横浜市栄区長慶寺住職中村良照師の法話は、「阿弥陀」とはサンスクリット語のアミタ―ユス(永遠の時間(いのち)=無量寿仏)、アミターバ(限りなき光明(ひかり)=無量光仏)を意味し、数ある仏の中でも私たちを救おうと本願の誓いを立てられ、厳しい修行を経て悟りを開いた特別の仏・本仏であり、その救いの働きかけが私たちに向けられているといった趣旨のお話だったと思います。そして阿弥陀仏は色も形を持たない真理、摂理であり、命のある、慈悲に満ちた真理であるとも話されました。
「自然(じねん)」についても触れられ、親鸞聖人が、
「自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに、法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑにしからしむるを、法爾といふなり。」 「末燈抄」 五 自然法爾の事)
と、自分たちが気づかないうちに、阿弥陀仏の働きかけが私たちに届いていて、信心をいただき、念仏をいただき、仏の誓いに身を委ねきったとき、自然法爾の世界に安住できるというのです。
つまり「南無阿弥陀仏」とは仏の願いに目覚めさせようとする仏からの働きかけであり、念仏を唱えれば、仏への信心も自然と起きるということで、私たちは「南無阿弥陀仏の精神」で素直に謙虚に生きていくことが肝要であると結ばれました。
江戸時代の禅宗の僧侶で、優れた歌人、書家の良寛の晩年の弟子の貞心尼との師弟愛についても話されました。禅宗の尼であった30歳の貞心尼は、70歳の良寛に魅かれ、和歌を贈答し、良寛の最期を看取りました。病状が悪化して、死が近いことを知った貞心尼は、
生き死にの 境離れて 住む身にも
さらぬ別れの あるぞ悲しき
と詠むと良寛は、
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ (「はちすの露」)
と、喜びと悲しみ、長所と短所など、人生のさまざまな裏表をさらけ出して死に行く我が身を万感込めて返しています。高齢化社会が急速に進んでいく昨今ですが、私たちがどのように生き、どのように死んでいけばよいのか、宗教の役割はどうあるべきかを問いかけているように思います。
また良寛は禅宗の僧侶なのに、次のような辞世の句も詠んでいます。
良寛に 辞世あるかと 人問はば
南無阿弥陀仏と 言ふと答へよ
仏の境地には自力も他力も無く、真理としての仏は阿弥陀仏ただ一つの意が込められていると思います。念仏を唱える良寛に親しみを感じます。
今回の法話はお話の領域が広く、理解するのに大変でしたが、親鸞聖人の教えにまた一歩近づけたという思いです。このような法話の機会を設けてくださいまして、ありがとうございました。深く感謝申し上げます。