1月9日 定例法話 午後一時半~」への1件のフィードバック

  1. 田原 秀樹

    今回の横浜市中区願西寺佐々木健太郎住職の定例法話は、人間の限りない欲望は年齢と共に根が深まり本性がむき出したものに変質していくが、これを救えるのが阿弥陀如来の本願という趣旨だったと思います。
    最も根源的な煩悩として、貪欲、瞋恚、愚痴の三毒が挙げられますが、親鸞聖人はこの煩悩を断ち切るために、比叡山で常行三昧の修行などを20年も挑まれましたが、煩悩はいよいよ深く根を張り、それに引きずられ、迷いもいっそう深まるばかりであらせられました。
    比叡山を下りた親鸞聖人は法然上人の専修念仏の教えに開眼帰依されて、
    「喜ぶべきこころを抑へて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに、仏、かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごとし、われらがためなりけりと知られて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」(歎異抄 第九条)
    と煩悩こそが阿弥陀如来の救いの契機となると述べておられます。
    阿弥陀如来の本願他力によれば、人が念仏によって浄土に往生する「往相」も、浄土に生まれ再び現世に還って人々を救う「還相」も仏の回向、つまり仏の働きだといいます。また「招喚」とは、念仏して浄土に生まれなさいと阿弥陀仏が招き喚んでおられることで、阿弥陀如来に帰命することも実は仏による人々への働きかけによることになるとされています。そして、
    「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに、親鸞が一人がためなりけり。」(歎異抄 後序)
    と阿弥陀仏は罪深い存在である自分のために長い間考え抜いて、信心と念仏を与えてくださった。だからこそこの信心と念仏が全てあると仰せられました。
    また七高僧の天親菩薩が「浄土論」を著して「無碍光如来」への帰依を表明されたこと、往相も還相も阿弥陀仏の力によるもので、そうしていただくにはただ本願を信ずることであると教えられた本師曇鸞についても触れられました。そして「親鸞」の二文字は、この二人の僧侶の名前から一字すつ取ったものだそうです。
    今回の佐々木健太郎住職の法話は難解ながらも理解しやすく、後で唯円の「歎異抄」や浄土真宗の教典、関係書籍を読む機会も与えてくださいました。「聞法」は私たちにとって、浄土真宗の教えを知る素晴らしい機会と改めて感じたしだいです。深く感謝申し上げます。どうもありがとうございました。

    返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です